リリィ・カーンの手紙
親愛なるギース・ハワード様
突然のお手紙をお許しください。兄からも、常々お忙しい方だと伺っておりますので、この手紙を読むお手間を煩わせてしまうのは、大変心苦しいのですが……。
私たち兄妹が、ギース様と出会ってから、十年が経とうとしています。十年。長いようで、実際に過ぎてしまうと、初めてお会いしたのがつい先日のように思えてしまうのは何故なのでしょうね。
兄が貴方について働くようになって、私たちの生活も、私たち自身も、大分変化をしたように思います。環境や収入も安定しましたが、なにより、兄自身が落ち着いたのでしょう。以前の兄から受けた、不安定な、危うい印象を、今はほとんど感じなくなりました。その分、兄の帰らない時間を心配する量が減ったせいか、私も、少し自立をしたんですよ。
以前、そんなおつもりではない、と私に仰られたことがありましたが、ギース様のおかげで、私たち兄妹は救われているのです。本当に、本当に有難うございます。
けれど……。
以前の兄から感じたような、あの危うさを、近頃、ギース様…貴方から、感じるのです。
もちろん、滅多にお会いする機会の無い方のことを、勝手な憶測で申し上げるのは大変失礼なことだと承知しております。ですが、休みの度に家に帰ってきては、誇らしげに貴方のことを語る兄の口調が、最近不安をまじえているように、私は感じてしまうのです。
幼い頃に、私が抱いていたものと、多分、全く同じ不安を。
ギース様。兄は、貴方に出逢って、私以外の人間に時間を費やす、ということを知りました。初めて。おそらく初めて。
貴方は気づいていらっしゃるでしょうか。
貴方が兄を変えたこと。
兄が、貴方に対して費やす時間を、何よりも、時には私よりも優先に、大切に、考えていることを。
ギース様。
貴方へ向かう兄の気持ちは、私に向かう気持ちとは違うんです。
私にとって、兄の代わりがいないのと同じように。兄にとって、私の代わりが無いのと同じように。
私は、貴方の代わりにはなれません。
貴方の代わりは、どこにも存在しないのです。
だれも、貴方の代わりになることは、できないのです。
兄はまだ、自分のために時間を費やすことを、知らない。
いつも、誰かのために。時間も、気持ちも、自分の生でさえ、費やしてしまうんです。
今、もし、その対象がいなくなったとしたら、兄は生きていくことを、放棄しかねません。
どうか、ご自愛をなさってください。
ご自身のためにも。兄を含めた、貴方の周りの方々のためにも。
私が申し上げるべきことでないのは解っています。
でも、今の兄が、どんな思いでいるか、私には痛いほど解るから……。
差し出がましく思われても、仕方がないと思っております。
ですが、これだけは、お伝えさせていただきたく、手紙をしたためました。
貴方についていく者、貴方を見つめる者、あるいは貴方に寄り添う者、その存在を、せめて、せめて御忘れにはならないで下さい。どうか、これだけは――。
貴方に幸せがあらんことを。
Lilly Kane
「相変わらず、強い……」
ポツリと呟く。
陽の光が淡く差し込む午後のオフィスに一人。ギースは自分の椅子に腰をかけたまま、うっすらと笑った。自嘲も混じったかのような複雑な笑み。彼がいつも、彼女リリィ・カーンに向ける表情だった。
彼女からの手紙をたたみ、封筒に戻して、ふと思いついたように、ギースは机の引出しを開けた。便箋を一枚取り出し、左手で万年筆を取ると、さらさらと、二度だけペンを走らせる。淀むことなく、滑らかに。
したためたその便箋を、ゆっくりと折り、再び机の引出しから、今度は封筒を取り出した。宛名を書かずに中身を入れて、そこで一度、手を止める。
また薄く、今度は僅かに悪戯な笑みを載せて、封をせずに封筒を閉じ、先刻まで読んでいた、リリィの手紙に重ねた。そのまま、机の引出しの、一番奥に押し込んで、ギースは席を立っていった。
サウスタウン ギースタワーの、オフィスの机に眠る、二つの封筒。ビリー・カーンがそれを見つけたのは、「あの日」以降の忙殺の日々が過ぎて、一月ほどたってからだった。
ギースの机には、殆ど、書類などは入っていないはずで、それを知っているがゆえに、整理が後回しになっていた。
筆記用具や、シガレットケース、小さな辞書……。それらの奥に、
「なんだこれ」
重ねられた、淡い薄桃色の封筒と、白い上質な封筒。薄桃色の小さな封筒は、ペーパーナイフで開けた形跡があった。
差出人は、リリィ・カーン。ちょっとギョッとして、中身を出そうとしたが、やめた。
もう一つの封筒は、少し大きな、厚口の紙を使用したもので、いつもギースが礼状など書く際に使用しているものだった。封はまだされておらず、ただ、中身は入っていた。
おそらく、返信なのだろう。
「でも閉じてねぇんだよな」
リリィに、渡した方がいいのかな、などと考えながら、二つの封筒を交互に見る。
暫し悩んだ後、ビリーは、何かを思い出したようにくっと笑った。
「そうだよな、解ってねぇわけ無えんだよな」
あんたのことだから、俺がこれを見つけて悩むこともご承知なんだろうよ。そう心の中で呟いて、ビリーは二つの封筒を元の場所に戻した。
「宛名が無いからコレだけリリィに持ってくわけにもいかねぇし、リリィの手紙と一緒にあったなんて言ったら、読んだの?なんて疑われるんだろうな」
ギースのもくろみに気づいても、回避の方法が思いつかない。
「ちぇっ」
少し寂しげに笑んで、大げさに舌打ちをする。
「絶対、"自然に"リリィに届けてやるからな。憶えてろよ」
そういい残して、ビリーはオフィスを後にした。
ギース・ハワードの執務室。彼の机に眠る手紙。そこには、それには、たった二つ。たった二つだけ。他には一言も書かれずに。ただ、それだけで、おそらくは、充分なものであるのだろう。
いつか、開かれる日を待って、かの人の手紙は、今はまだ、暗がりに眠っている。

-Fin.-
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